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柳の下で雨宿り

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アニメ紹介するのはいいけれど、画像のトリミングだったり探し出したり、ネタ盛り込んだりするのが結構大変ですねぇ。
アニメブログをされている方はすごいです……。

とかいって懲りもせずまたアニメ記事載せる。
最近いろいろモリモリ観てますよーw


○劇場版 ストライクウィッチーズ
strike-witches0448.jpg

思ったよりもパンツ成分がなくて……、ウソ、結構ありました。
でもやはり戦闘は素晴らしかった。
内容はアニメ版終了その後、という感じでしょうか。アニメ濃縮ってわけじゃなくてよかったw
ラストはちょっとご都合というか、あーやっぱそうもってくるしかないよねー的な結末だったのがちょっとアレかな…。
それならそれでもっと宮藤さんを全面にだしてほしかったっていうのもありますし…。

アニメ1期、2期とどちらも観てますけど、何がいいって、上にも書いたけど戦闘ですよ!!
航空戦、敵のレーザーをかいくぐり、あるいは防御シールドではじき、間隙をついて肉薄し、または離脱からの遠距離狙撃。
一人が押され気味なら一人がカバーへ入る。
一人で突破できなかったら二人でたたみかける。
一人になって、いつの間にか囲まれても、全員で助けにきてくれる。
というように、目まぐるしく変わる戦況の中で見える友情や連携も評価したいものの一つですね。
重火器のモデリングも実物を忠実に再現していて、確か音や反動等もかなり細部までこだわって作られていたと思います。
さらに、ウィッチが運用しているストライカーユニット(プロペラのついた鉄の履物ね)も、実際に存在していた航空機をモデルとして設定されていて、例えば宮藤芳香が使用している“A6M3a零式艦上戦闘脚二二型甲”
これは実在した大日本帝国海軍の零式艦上戦闘機二二型甲(機体略号 A6M3a)をモデルとしています。
また宮藤芳香が後期で使うようになる“震電”も大日本帝国海軍の試作局地戦闘機、震電(機体略号 J7W1)をモデルとしており、劇中に於いても「J7W1」(J=局地戦闘機、W=渡邊鉄工所・九州飛行機)と、震電の機体コードが明言されています。
もちろん各国のウィッチが運用しているユニットも実際にその国を守り、戦った名機をモデリングしていて、本当に素晴らしいです、愛を感じますねぇ!
何度もいいますけど、パンツ要素がなかったら多くの人に強く強く勧めたい作品なんですよ……。

それとキャラ設定が気になって調べたんですけど、メインキャラである第501統合戦闘航空団のみんなは、全員が実際に戦争、特に第二次世界大戦期で活躍した、エースパイロットをモデルとしているそうです。
ここでは我が国の英雄だけではありますが、少しばかり紹介を。



2012_1027sw17.jpg
・宮藤芳佳……所属 扶桑皇国海軍遣欧艦隊第24航空戦隊288航空隊、階級はTV版では軍曹、劇場版では少尉。
イメージモデルは、大日本帝国海軍航空隊所属、「空の宮本武蔵」の渾名をもつ、武藤金義(撃墜数35)

呉海兵団に入団し駆逐艦浦波に乗艦、その後大村航空隊での延長教育を受け航空隊へ。
日中戦争では中華民国機5機を撃墜し、撃墜王となる。
1942年4月元山海軍航空隊(第二五二航空隊)に所属し基幹搭乗員として新人の練成にあたるとともにラバウル、ソロモン航空戦を戦い抜いた。
1944年6月、八幡空襲部隊に所属。硫黄島に進出し米海軍第58任務部隊のグラマンF6F戦闘機などの迎撃に当たる。
1945年2月17日、厚木基地上空に大量に飛来したグラマン編隊の一部12機にオレンジ塗装の紫電単機で挑み2機撃墜の戦果を挙げた。敵を集団から一機ずつ誘い出して撃墜する様は一乗寺下り松の決闘を思わせる戦いぶりであり、その時から海軍内で「空の宮本武蔵」の異名で知られるようになった。
1945年6月末、源田実司令の希望指名で第三四三航空隊戦闘301飛行隊(新撰組)に異動する。隊長である菅野直大尉の護衛役となることが期待され、この時武藤は源田司令に「私が来たからには菅野隊長は死なせませんよ」と約束した。
1945年7月24日、343空は武藤含む21機で10倍以上の米機動部隊艦載機を迎撃。豊後水道上空の交戦で武藤は敵編隊に攻撃を加え、菅野隊長を襲う機体にも飛びつき撃墜した。激戦の中、武藤は源田司令との約束を守り切ったが、この戦闘で武藤は未帰還となった。この戦闘は御嘉賞の御言葉を賜わり表彰されるものとなった。

武藤の戦闘技量は敵十二機を一機で相手にして戦う事が出来たほど高く、海軍内でも名が知られたパイロットであった。
また編隊運動にも長けており252空時代三森中尉の列機を務めた際は他の列機が離れても武藤だけはピタリと側にいて“「何があっても離れないのでご安心を」と言う武藤は側にいるだけで心強かった”と三森は語っている。


saka17-2d109.jpg
・坂本美緒……扶桑皇国海軍遣欧艦隊第24航空戦隊288航空隊、階級は少佐。得意技は左捻り込み。
イメージモデルは、大日本帝国海軍航空隊所属、「大空のサムライ」の渾名をもつ、坂井三郎海軍(撃墜数64)

速さへの憧れを抱いてた坂井は、海軍に入ればスピードの速い乗り物である飛行機を、乗るまではいかなくても、近くで見たり、触ったりできるだろうと思い、1933年(昭和8年)5月1日に四等水兵として佐世保海兵団へ入団する。
その後、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となり、またその後には、海軍砲術学校を200人中2番という成績で卒業、戦艦榛名の主砲、二番砲台に配属されるも、間近で射出される艦載機をみて搭乗員の夢を思い出し、年齢制限ギリギリで受けた試験に合格し、念願の飛行機乗りとなる。
それから徐々に頭角を現していった坂井は、戦闘を称賛されるだけでなく、下士官兵、上官問わず教育を徹底し、階級の垣根を越えて厳しくあたり敬意を表されたという。

後の「ラバウルの貴公子」と呼ばれる笹井醇一はこう手紙に記している。
「(前略)坂井三郎という一飛曹あり、撃墜機数50機以上、特に神の如き眼を持ち、小生の戦果の大半は、彼の素早き発見にかかっているのでして、また、私も随分危険なところを、彼に再三救われたものです。人物技量とも、抜群で、海軍戦闘機隊の至宝ともいうべき人物だろうと思います。(中略)私の悪運に関しては、絶対で百何回かの空戦で被弾はたった2回というのを見ても、私には敵弾は近づかないものと信じています。(後略)」

ガダルカナル島の上空において坂井は重大なミスを犯し、致命傷は免れたものの右側頭部を挫傷し(そのため左腕が麻痺状態にあった)計器すら満足に見えないという重傷を負った。
坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。
帰還は不可能と判断し、玉砕しようとしたものの敵艦を発見できず、やはり帰還を決意。止血をし、それでも出血多量で何度も意識を失いながら約4時間に渡り操縦を続け、奇跡的に生還を果たした。
この負傷で右目を失明、左目の視力も0.7まで落ちてしまう。
“昼間でも星が見える”と豪語していた神眼の坂井は、ここで消えることとなる。

重傷を負い、編隊から外れることとなった坂井を前に、笹井は目を涙でいっぱいにしながら、「貴様と別れるのは、貴様よりもつらいぞ」と言いながら、咆哮する虎の姿が浮き彫りにされたベルトバックルを引きちぎり、「これはな、俺の親父がこの戦争が始まった時、わざわざあつらえて俺たち3人の兄弟にくれたんだ。虎は千里を行って千里を帰る、という縁起だ。だから貴様も、千里の内地へいって、治してからもういっぺん帰ってこい。いいか、待ってるぞ。」と言って、坂井の手を痛いほど強く握ったという。

視力を大幅に失ったことにより搭乗員をやめさせられそうになった坂井だが、上官から新人の育成に尽力してくれと言われ、操縦桿を握る。
その後、横須賀海軍基地へと異動、再び大空へと舞い上がる。

硫黄島防空戦、坂井は視力低下のせいか、敵機を味方の零戦と誤認してしまい、15対1という絶体絶命の状況に陥ってしまう。
しかし坂井は、長年磨かれてきた高度な空戦技術、そして研ぎ澄まされた神経、勘を駆使した必死の回避操作を行い、15機から放たれた全ての射弾を、一発の被弾もなく回避、逆に敵機を編成から1機ずつはじきだして攻撃に転じた。
この時米軍15機の編隊は、数では圧倒的に有利だったはずなのに、防御隊形をとって応戦していたという。

この戦いで帝国軍は不利な戦況となり、艦載機による特攻命令が下される。
だが、レーダーで補足され、次々と撃ち落されていく味方を目に、坂井は命令を無視して反撃にでるも状況を鑑みて帰還を決意、日没直前、基地の方向もわからぬ中、坂井の勘で奇跡的に帰還することに成功した。
この時、無事に生還した搭乗員にあの“空の宮本武蔵”、武藤金義もいた。
後日、米軍の艦砲射撃により硫黄島にあった残存機は全機破壊されている。

硫黄島から帰還後、坂井は第三四三航空隊から横須賀航空隊への異動、代わりに盟友である武藤金義が坂井の穴を埋めた。
しかし、その後の豊後水道上空の空戦において武藤が戦死したため、坂井は、武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したのではないかと終生気に病んでいた。

ポツダム宣言受諾後の1945年(昭和20年)8月17日、坂井は飛来した米軍機を零戦で迎撃、これが第二次世界大戦最後の空中戦、数々の伝説を残した男の最後の戦いとなった。

~逸話~
・坂井には、僚機の被撃墜記録がない。
これは簡単に達成できることではなく、同じく僚機被撃墜記録がないとされるドイツ空軍のエーリヒ・ハルトマンも1機撃墜(搭乗員は生還)されていた事実が判明したことから、第二次世界大戦の歴戦搭乗員の中でこれを成し遂げたのは判明している限りでは坂井だけである。
そして坂井は撃墜数よりもこの記録のほうを誇りに思っていた。

・ジャワ島の敵基地への侵攻途中、軍人・民間人を満載したオランダ軍の大型輸送機を発見。
重要人物が乗っていると思い、鹵獲しようとするも、輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づき戦意喪失。
敵機に手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。
なお、これと同じ頃、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦が、「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会したところ、該当パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いた。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。

~~~

生きたまま終戦を迎えた坂井は、多くの軌跡を残す。
著書『大空のサムライ』は世界的に大ヒットし、プロバガンダで凝り固まった、野蛮な日本人というレッテルを解かし、またイラク空軍では、この著書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書として義務付けていたという逸話もある。
本が売れたことで何度も渡米することになった坂井は、70歳を超えた時にもセスナ機を見事に操縦し、宙返りをやってのけた。
これを観た記者や軍人は老いた元零戦パイロットが巧みに操縦したことに舌を巻いたという。

2000年(平成12年)9月22日、厚木基地で催されたアメリカ海軍西太平洋艦隊航空司令部50周年記念祝賀夕食会で、来賓として自らの使命感を語り、食事を終えて帰途についた際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となる。

享年84。
大空を駆けたサムライは、静かに永遠の眠りへとついたのだった。



はい、ということで、かなり長くなってしまいましたね……。
もっと端的にまとめられる文章力がほしいですorz
ほとんどの文がウィキペディアの引用となっていますが、これでもかなり省いてますので、もっと詳しく知りたい方は是非そちらのほうへ飛んでみてください。
我々の今を守ってくれた英雄たちをもっと知ってください。

っと、主題が変わってしまってますね^^;
上に書いたように、史実を元にいろいろと作り込まれているのがストライクウィッチーズというアニメです。
興味が湧いたのなら見て損はない作品ですよ!
f5f32b28.jpg



ツヅ…ク?(思いついた時にでも更新していきますw)
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  1. 艦これ
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